2010年6月アーカイブ

6月29日 バーンスタイン

来月9日はオーケストラ・アンサンブル金沢、そして指揮者の高関氏との久しぶりの共演があり、今から楽しみにしています。プログラムはこれも久しぶりにバーンスタイン作「セレナード」。これはレナード・バーンスタインの書いた唯一のヴァイオリン協奏曲です。

多才な人で、コンサート用の音楽もたくさん書いていますが、ミュージカルの不朽の名作「ウェストサイド・ストーリー」の音楽を書いたのもバーンスタインです。実は今年の1月、極寒のニューヨークで、ブロードウェイ再演中の「ウェストサイド・ストーリー」を観にいきました。特徴的で魅力的なメロディ、思わず身体が動いてしまうような変拍子で乗りのよいリズム、ミュージカル音楽の単純さの中にふっと見せる魅惑的なハーモニーの変化など、この作品は今でも十分に「新しく」て「衝撃的」!

ブロードウェイのミュージカルは「オペラ座の怪人」「蜘蛛女のキス」「美女と野獣」「シカゴ」「ビリー・エリオット」など私も結構観ていますが、やはり音楽についてはどれもいま一つ単純さが耳について楽しめない、というのが本音です。「ウェストサイド」は舞台上のコリオグラフィーも楽しめましたが、さすがバーンスタイン、何よりも音楽に深い満足を覚え、これを超えるミュージカルはこれからも存在しないのではないか、と思いました。

ヴァイオリン協奏曲「セレナード」は、コンサート用のいわゆる「シリアス」な作品ですから、もう少し作曲家の手加減しない真剣さと複雑さを持っていますが、官能的な旋律美、対位法的なテクスチャーを使った変容、切れ味の良い変拍子のリズム、ジャズの影響なども見られ、バーンスタインの魅力を存分に楽しめる作品です。プラトンの「饗宴」を再読したことをインスピレーションに、ストーリー性に囚われることなく、「愛」というものの本質について、音楽で自由に雄弁に表現しています。全5楽章はそれぞれが有機的に結びつき、バーンスタインの奥行きの深い音楽世界を余すところなく味わえる作品と言えるでしょう。

 

英国BBCのラジオ「ディスカヴァリング・ミュージック」というシリーズで2005年にこの曲が取上げられていて、その模様をBBCのウェブサイトで聞くことが出来ます。http://www.bbc.co.uk/radio3/discoveringmusic/pip/fxf4x/ 

 

 このシリーズは専門的になりすぎず、一般向けの番組のようですが、実演を掻い摘んで聴かせながら、音楽の構造的な側面を手際よく解説しています。番組の最後に解説者が述べる「バーンスタインのセレナードは演奏される機会は少ないが、素晴らしい名曲である。」という意見に私も大賛成です。英語ですが、興味のある方は上記サイトで是非聴いてみてください。

 どちらかというと日本の同様の一般向けクラシック啓蒙番組は興味本位のトピックに始終してしまう傾向があるように感じますが、BBCのようにもっと音楽の構造的な部分を大事に解説してほしいと思います。音楽は形が見えないけれど、その中にしっかりとした構造が認識できてこそ、その曲の持つ本質的な意味を捉えることができるのです。

 ところで、このようなシリーズをいつでもインターネットから無料でアクセスできるというのも、さすが大英博物館を持つ英国ですね。

 

 

 

 

6月16日 ストラド&デルジェス コンサート

バルトロメオ・ジュゼッペ・アントニオ・ガルネリ(1698-1744)のヴァイオリンにはラベルにIHSのマークが印されていることから、通称「デルジェス」と呼ばれています。IHSとはJesusのギリシャ語の綴り、IHΣOΥΣの最初の3文字。またはラテン語で"Iesus Hominum Salvator"(救世主)の頭の3文字。アントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)と並び賞される名器を残していますが、長生きをして多産だったストラディヴァリに比べて「デルジェス」は音色も対照的で数も少ないため、より高い評価をされる場合が多くあります。

昨日は東京の紀尾井ホールにて、日本音楽財団の主催でストラディヴァリと「デルジェス」の2台のヴァイオリンを使ったコンサートが催されました。ストラディヴァリはドイツ人の有希マヌエラ・ヤンケさんが演奏し、私は「デルジェス」を担当しましたが、6月8日に1736年製のデルジェス「ムンツ」と数年ぶりに再会、親密になれる時間はまだ一週間弱という状況でのコンサートでしたから、正直に言って楽器の持つ可能性の40%くらいしか昨日はお見せできなかったかもしれません。

楽器に再会して最初の2日程は、練習しながら新しい可能性にワクワクして過ごしましたが、それも落ち着くと3日目位から真剣なコミュニケーションが始まりました。人間関係の構築と同じプロセスで、一進一退を繰り返し、喜ぶときもあればフラストレーションに苦しむ時期も過ごしながら、段々に上手くコミュニケーションを取れるようになっていきます。今はまだ最初の段階ですが、これからがとても楽しみです。

 

私が10年以上前に初めて1709年製のストラディヴァリの「エングルマン」を音楽財団からお借りしたときは、ストラディヴァリ特有の艶のある音色と、楽器の完璧な健康状態(長くコレクションとして大切に保管されていたため、ほとんど消耗のない新作のような状態でした!)から来るところのパワーの強さに魅了されました。それまでストラドを弾いた経験がほとんどなかった時期でしたから、音がある程度バランスよく出せるようになると、その音色の美しい艶とパワーだけで喜び弾いていた時期もありました。その後何台かの名器を演奏させていただく期間を経て学んだこと、それはどんな名器であっても肝心なのはやはり自分の出したい音色やニュアンスをしっかりと頭に描いてヴァイオリンと向き合うこと。勿論素晴らしい楽器は何もしていなくてもある程度の響きの美しさを作ってくれますが、それ以上はやはり演奏家が生み出さなければなりません。楽器が提供してくれる新しい可能性に甘えることなく、それを超えるようにさらに自分の要求を高く伸ばしていくこと。今回もそのような気持ちで出来るところまで挑戦していきたいと思っています。

演奏後のお食事会で撮ったスナップを添付します。日本音楽財団理事長の塩見和子ご夫妻、有希マヌエラ・ヤンケさん、共演したピアニストの坂野伊都子さん、そして私です。有希マヌエラさんは、お母様が日本人とのことで日本語も上手に話し、愛らしい人柄の女性でした。坂野さんとは19日にも神戸で共演します。


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6月8日 薪能

先週の土曜日に一泊で秋田に行き、薪能を見てきました。

秋田中心市街から車で南へ一時間ほどの所、唐松城跡の丘の上に立派な能楽堂があり、毎年大仙市の主催で薪能の公演が催されます。大仙市は6月の薪能に国際教養大学の留学生や日本人学生、教職員などの数十名を毎年招待してくださっていて、私も今回で4回目の常連です。

小高くなった城跡に建てられた能楽堂からの眺めは美しく、正に日本の田舎の原風景。平地の水田の新緑の間を縫って、2両編成の電車が一時間に数本ゆったりと規則的な音を立てながら走り抜け、周囲には低い山々が穏やかな緑の稜線を造っています。幽玄の能世界とこのなつかしい風景が相まって、タイムスリップしたような不思議な感覚に陥ります。

今回の演目は、能「花月」、狂言「附子」、能「遊行柳」。

あいにくの大降りの雨で、合羽を着込んだままではプログラムも読むこともままならず、この分野の知識がない私は筋書きも分からずに戸惑いましたが、始まってしまうとその研ぎ澄まされた美に圧倒され、深く引き込まれていきました。すべての無駄をそぎ落とし、ミニマムな動きと音楽で豊かな色彩と情感を創り出す舞台芸術として、「能」は究極の高みに存在するのではないでしょうか?「祈り」のような感情を呼び起こし、深く人生の無常を省みる気持ちにさせるという意味でも、バッハなどの音楽が体現するものに共通する精神性を感じました。

打って変わって狂言には、音楽はありませんが、筋書きは現代の感覚でも十分に面白く、擬態語や擬音語が多くて漫画のよう。したがって意味も楽に理解できるので、楽しく笑いました。最後の演目「遊行柳」では雨も上がり、不規則に揺れる薪の明かりに照らされて、遠くの山々の次第に闇にかすんでいく稜線を眺めながら、ゆったりとした心で素晴らしい時間を過ごしました。

 

開演前に雨の合間を縫って急いで撮った能舞台の写真を添付します。

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唐松能楽殿での次の公演は8月29日です。ご都合がつく方は、どうぞ一度この秋田の美しい景色と能を楽しみにいらしてください。参考までに、大仙市の能楽堂のサイトもご紹介しておきます。

 

http://www.city.daisen.akita.jp/site/gyousei/org_info/kyowa/nohgakuden/index.html

6月1日 音楽におけるコミュニケーション

私は、音楽とは究極の「コミュニケーション」であり、また究極の「自由の表出」であると考えています。作曲家がその作品を通してメッセージを送り、それを演奏者が自分のフィルターを通して再構築し、聴衆に伝える。聴く者は演奏から作品の持つメッセージを受けとり、共感や驚きの体験を通して自分の内面に新しい世界を発見する。

言葉では上手く表現ができないのですが、音楽作品における「音」とは、ただ一つ一つの音の羅列や重なりではなくて、それぞれの音が関係性の上に成り立ち、意味を持っているのです。その関係性を理解することが大変重要であり、またその理解の上に無限の解釈の可能性がある。ここに音楽が究極のコミュニケーションであり、自由の象徴という理由があると思っています。

例えば、バロックの作品を演奏するとき、16分音符が多く並んでいるような箇所がありますが、それらはすべて平等に弾くのではなく、和声を感じながら弾いて行くと、自ずと特別で目立たせたい音と、和声の一部としてすっと軽やかに過ぎていく音とがあります。また和声の感じ方によって、弦楽器の場合は音程を微妙に変えることによって、いわゆる「色彩」を加えていきます。バッハなどを弾いていると、何度演奏しても違った解釈の可能性や、新しい発見があったりして、いくら勉強してもし尽くすことはありません。

簡単な例を一つ出して見ましょう。フィオッコ作の「アレグロ」の、冒頭フレーズの終わりの2つの8分音符。これは楽譜に書かれた音価は同じ8分音符ですが、決して同じに弾いてはいけません。最後から2つ目の8分音符の「ド」の音は、和声的には「アポジャトゥーラ」というもので、次の「シ」音で協和音の響きに解決する前に、一音高い音で不協和音を作り出す目的で置かれているので、強調される音なのです。バロックの和声では、協和音に解決される前の不協和音が強く意識されるのです。それらの和声の動きを理解しなければ、バロックは演奏できません。勿論どの時代の作品も和声を理解する必要はありますが、ロマン派や現代曲になると、何となく感覚でごまかせる場合もあるのです。

この間も久しぶりに弾いてみたバッハの作品の中で、重音の延ばしのところ、下の2分音符を先ほどのアポジャトゥーラの上音が次の音で解決するまでしっかり延ばしたほうが良いということを、改めて認識した箇所がありました。

 

秋田の国際教養大学にスズキ・メソードの子供たちが演奏をしに来るということで、今年の春は授業を持っていない私も、とんぼ返りでお手伝いに行ってきました。子供たちは皆さんとてもよく弾いていて、観客も感心しきり。ただ、私は今まで書いてきたような和声に対する知識=感覚が演奏から感じられないことを、大変残念に思いました。

やはり、音楽の真の楽しみは、これらのことに感覚を研ぎ澄まし、新しい発見をしていくことにあります。子供の時から訓練していくに越したことはありません。多くの日本人はこの和声感覚を持たないで演奏してしまうので、ヨーロッパなどで、日本人的演奏=正確だけれど平坦で色彩や動きのない演奏 といわれることも多くあります。

和声の感覚を伸ばしていくには、やはり室内楽=アンサンブルを多く勉強、経験することがよいと思います。これは機会があるたびに、私が最近色々なところで推奨していることなのですが、ヴァイオリンを習っている人は、ピアノも同時に習得して、和声を色々と試したりすることもお勧めします。

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